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辰野金吾と工手学校
工学院大ゆかりの人物シリーズ |
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| 講座内容 | 東京駅の駅舎や日本銀行本店などの設計者として知られる辰野金吾(1854~1919)は、工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)第一期卒業生として英国に留学、帰国後は母校の教授、日本建築学会長などを務めた、わが国近代建築の鼻祖である。また軽妙洒脱な随筆で知られるフランス文学者辰野隆の父でもあった。 その金吾が、1887(明治20)年の工手学校(現在の工学院大学)の設立に寄与し、発起人14人の中にも名を連ねていることは、一般的にあまり知られていない。開校後は建築学科教務主任を引き受け、1896(明治29)年、工手学校の校舎が全焼したとき、再建工事委員になって、復興に尽くした。65歳で亡くなるまでの間に、会計主任や監事など、学校の管理運営面にもあたっている。 金吾は建築を一部エリートのみによるものとは考えていなかった。おそらく建築界全体の近代化が彼の視野にはあり、それが具体的には工手学校の設立や教育への寄与となってあらわれたのであろう。 工手学校の卒業生には辰野の建築事務所に入った者もおり、たとえば松本與作は東京駅の施工管理を担当、戦後高度成長期まで生きて、辰野の「語り部」となった。 従来、辰野金吾は帝国大学教授、日本銀行本店設計といったエリートとしての視点で語られることが多かった。しかし、今回は特に工手学校との関わりを主軸とし、近代化を下支えた無名の技術者たちの教育にあたった、金吾の別の側面に光をあてたいと考えている。 |